「〇〇〇〇にお勤めのはるかさんですか。」
それが、すべての始まりだった。
平成の初め、まだ携帯電話などない時代。
東京都町田市の鶴川にある実家に設置された黒電話が、不穏な呼び出し音を響かせた。
受話器を取った母親は、相手の見当もつかない、しかし刃物のように冷たい女の声に硬直したという。
その当時、鶴川の街に「柏木」という家は三十、四十件はあった。
相手の女は、その一軒一軒にしらみつぶしに電話をかけていたのだ。
「娘は今、不在にしておりますが」
母が戸惑いながら答えると、受話器の向こうの女は、突然ヒステリックに金切り声をあげた。
「親なら、自分の娘が外で何をやっているかよくよく把握しなさい! 既婚男性に色目を使って、家庭を壊そうとしているのよ!」
その夜、私が地元のダンススタジオでのレッスンを終え、夜九時過ぎに帰宅したとき、家の中の空気は凍りついていた。
「はるか、お前、外で何をやっていたんだ!」
普段は温厚な父が、見たこともない形相で激怒している。母は居間の隅で青い顔をして震えていた。
訳が分からず、私は必死に弁明した。
「私、普段からガサツで色気もないって言われてるじゃん! 会社のおじさんたちに素敵な人なんて一人もいないし、色目なんて使うわけがない!」
私の必死な様子に、両親もようやく落ち着きを取り戻し、「まあ、あんたの性格なら、そんな器用な真似はできないか……」と、ひとまずは信じてくれた。
完全なシロ。無実の罪。
しかし、誤解が解けても、背筋を這い上がるような気持ち悪さは消えなかった。
あの執念深い女は誰なのか。私は本当に、誰かに恨まれるようなことをしたのだろうか。
自分の記憶の引き出しを、一つずつひっくり返すようにして思い返した。
そして、脳裏に一つの「目」が浮かび上がった。
私は地元のテニス部に所属していた。
そこに、四十代後半から五十代前半ほどの、ベテランの男性コーチがいた。
部員からは「おじさん」と慕われ、私も乱打の相手をしてもらったり、時には新松田の駅まで車で送ってもらったりしていた。
二十代半ばの私からすれば、彼は完全にお父さんのような存在で、下心など微塵も感じていなかった。
だが、周囲の目が違ったらしい。
部活の先輩から「柏木さんは、〇〇さんのお気に入りだもんな」とからかわれたことを思い出す。
空間を一瞬にして凍らせる、あのおじさんの「妻」の姿が、鮮明に蘇ってきた。
その奥さんは、歳の割にとても若く見える、可愛らしい人だった。艶のある黒髪ロングヘアをなびかせ、お化粧も綺麗に施されている。
おじさんの前では、不自然なほど少女のような甘えた振る舞いをする。
内心「少し気持ち悪いな」と思いつつも、私は「旦那さんのことが大好きなんだな」くらいにしか思っていなかった。
ある日、その奥さんが部活の練習に見学にやってきた。
おじさんは妻と一通り乱打をこなした後、いつも通り私をコートに呼び、ラリーを始めた。
「ナイスショット、はるかちゃん」
おじさんが笑顔で声をかけた、その瞬間だった。
コートのベンチに座っていた奥さんと、ふと目が合った。
それは、人間が人間に向けるものとは思えない、底無しの憎しみに満ちた目だった。
可愛らしい顔立ちのままで、血の気の引いた唇が小刻みに震えている。
その整った顔が、私を呪い殺さんばかりに睨みつけていたのだ。
「……あの電話は、あの奥さんだ」
点と線が繋がった瞬間、全身に鳥肌が立った。
彼女は夫の浮気を疑い、狂気に駆られて「柏木はるか」の家を突き止めたのだ。
私は恐怖のあまり、すぐにテニス部を辞めることにした。
おじさんからは「またおいでよ」と引き留められたが、「家の手伝いが忙しくなって」と嘘をつき、二度とコートには近づかなかった。
それから数週間、電話がかかってくることもなくなり、日常は平穏を取り戻したかに見えた。
私はあの恐怖を忘れようと、ダンスのレッスンに没頭した。
ある水曜日の夜。レッスンが終わり、鶴川のダンススタジオを出たのは夜の九時前だった。
辺りはすっかり暗くなり、街灯が寂しく道路を照らしている。実家へと続く夜道を一人で歩いていると、ふと、背後に違和感を覚えた。
コツ、コツ、コツ……。
革靴ともヒールとも違う、奇妙に重い足音が、一定の間隔で後ろからついてくる。
気のせいだと言い聞かせ、歩調を早める。しかし、後ろの足音もまったく同じ速さでついてくる。
曲がり角に差し掛かったとき、私は意を決して、背後を振り返った。
心臓が跳ね上がった。
数十メートル後ろ、街灯の薄暗い光の中に、一人の女が立っていた。
季節外れの、真っ白なロングコートを着ている。
街灯の光の中に浮かび上がるほど不自然に長い、真っ黒な髪がだらりと垂れ下がっていた。
街灯の光が遮られ、顔の細部は見えない。しかし、確信があった。
あの、歳の割に若く見える可愛い顔をした女が、暗闇の中から私をじっと見つめている。
なぜ、ここが分かったのか。
実家の電話番号だけでなく、私が水金土の夜に、このスタジオに通っていることまで、あの女は調べていたのだ。
恐怖で声も出ず、私は脱兎のごとく走り出した
。全力で自宅へと駆け込み、玄関の鍵を閉めて激しく息をつく。
窓の外を恐る恐る覗いたが、そこには誰もいなかった。
それ以来、私は夜道を一人で歩くことができなくなった。
彼女は今も、あの憎しみに満ちた目で、私の日常のすぐ後ろに潜んでいるのかもしれない。
白いコートの裾を揺らしながら、私が一人になる瞬間を、じっと待ち続けているのだ。